〜アベノミクスの結末と転換迫られる日本~
8月8日月曜日18時半~ 当日 ZOOM アドレス
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支部総会・講演会(兼 春季セミナー)
日本科学者会議群馬支部( JSAG ) 冬季セミナー
「なぜ働くことはつらいのか-官僚主義、ブルシット・ジョブ、業績主義ー」
日 時:2022年2月3日(木)18時〜19時30分 参加無料
講 師: 小谷 英生 氏(群馬大学共同教育学部准教授) Zoomミーティング
司 会:永田瞬 氏(高崎経済大学准教授)
報告者より:デヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』(岩波書店、2020年)を手掛かりに、現代の労働はなぜ面白くないのか、官僚主義や業績主義の特徴や問題点も含めて報告します。
岩波書店の紹介文:やりがいを感じないまま働く。ムダで無意味な仕事が増えていく。人の役に立つ仕事だけど給料が低い――それはすべてブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)のせいだった!
職場にひそむ精神的暴力や封建制・労働信仰を分析し、ブルシット・ジョブ蔓延のメカニズムを解明。仕事の「価値」を再考し、週一五時間労働の道筋をつける。『負債論』の著者による解放の書。
JSAG冬季セミナー講師 小谷英生(群馬大学共同教育学部)
本セミナーで講演者は、ディヴィッド・グレーバーの議論(『官僚制のユートピア』および『ブルシット・ジョブ』を中心とした議論)を下敷きとして、なぜ私たちはこれほど忙しいのか、しかも本来の仕事ではなく、くだらない雑務で忙殺されているのかを社会理論的(社会哲学的)に考察した。グレーバー自身の立場からいえば、経済人類学的考察ということになる。
私たちが忙殺されているのは、毎日大量に舞い込んでくるメール処理だったり、会議の資料作成、誰も読まないであろう出張報告書作成などである。こうした仕事が次々と舞い込んでくる原因の一つはテクノロジーの進化であり―私たちはスマホに支配されてはいないか?―、テクノロジーを利用した、あるいはその進化を促したマネジメント志向の社会的拡大である。そして科学の進歩は中立的かつ必然的であると考えられていることから、この忙しさは歴史の必然であり、最新テクノロジーを非難する人はたんなる懐古主義者とみなされがちである。
しかしグレーバーは、これこそが悪しき思い込みであると喝破する。現在の姿とは別のかたちでの科学技術の発展も、十分考えられるからである。
そもそも科学研究には人もカネもかかり、大学の研究室から大型実験施設まで、しかるべき施設も必要だが、どの研究にどのような資源が割り振られるかについては政財界の意向がつよく働く。日本でも、例えば原子力発電と再生エネルギー技術開発との間で、どれほど研究費配分の差があったのか、少し調べれば分かるだろう。「クリーン・エネルギーは原発(と供給不安定な太陽光発電)しかない」という状況は、長い時間をかけて政策的に作られたものなのだ。かくして少なからぬ人が原発再稼働以外に選択肢なしと思い込むように、私たちはメールやビジネス・チャットのような通信技術や様々な管理アプリの発達といったテクノロジーの進歩を必然的でオルタナティブのないものと考えがちである。
現状のラインでのテクノロジーの進化を、私たちはなぜ易々と受け入れてしまうのか。もちろん受け入れざるをえないということもある(少なくともオフィス・ワーカーは、メールはもちろんエクセルなどが使えないと仕事にならない)。しかしまったく何の抵抗もなく積極的に受け入れられる傾向にある理由の一つとして、私たちの社会において官僚主義が広くいきわたり、私たちはそれを当然のものと受け入れてしまうということがある。官僚主義の本質は手続き主義、ルールの絶対視、エビデンス至上主義である。ここに実力主義や評価主義が結びついて、官僚主義はたんなる行政手続き以上のものとなり、産業社会に広がっている。
ルールの絶対視の例として、グレーバーは警察への信頼の高さを挙げている。プラトン以来の伝統を持ち出すまでもなく、ルールは制定者と非制定者の間の権威関係・権力関係を含んでいる。したがってルールの絶対視がもたらすのは、権威・権力への盲目的服従である。事態は警察にとどまらない。私たちは電車内でのトラブルは駅員に、コンビニであれば店員に解決してもらおうとする。それ自体は個人的実践としては正しいが、横並びの人間関係のなかで問題解決しようという姿勢と能力の弱体化を含んでいることは留意すべきである。実際、まさにこの能力の弱体化こそが、責任者に頼ることを正しい実践とするのである。私たちは社会的トラブルを私たち自身で解決することができなくなっている。
このような状況で私たちは、「ルールだから仕方がない」「上の指示には従わざるを得ない」という態度を受け入れることになる。興味深いことに、この二つの態度はしばしば一体化しており、区別できないことがある。いわば、立法と行政の境界線が不鮮明になっているのだ。カール・シュミットは行政が立法を(ルール運用者がルールを)踏み越える事態を例外状態と規定し、現在では例外状態の常態化がしばしば指摘されるが―安倍政権やトランプ政権は多くの点で、こうした状況を裏づけていた―、一方でルール運用者は、ルールの私的解釈や私的濫用によって、恣意的な権力行使を行。他方で、これは議論の中で気づかされたことであるが、ルールがルール運用者の権威を上回ることがある。それは、ルール運用者が、ルールの機械的な運用によって自らの決定と責任を回避しようとする場合である。政治家が毅然として決定すべき事柄を住民投票という手続きに委ねようとする、といった事例がこれに当たる(とりわけそれは、マイノリティ差別解消に向けた政策立案などに見られるようである)。
結局のところ、私たちは下らない雑務に忙殺されていながらも、「そういう時代だから」とか、「それはルールだから」「上からの指示だから」といった理由で表立って拒絶することができず、それに取り組むことになる。非効率な手続きを増やすだけだとわかっていても、効率化を目指すとされる組織改革やシステム導入に渋々したがうことになる。これもまた本セミナーの論点であったが、かくしてホモエコノミクスによる選択の最大合理化という資本主義モデルに反した事態が、さまざまな組織で生じることとなる。各人が自分のやるべき仕事に集中して取り組めないという事態は、あきらかに非合理であり非効率である。しかもこうした非合理と非効率に人的・物質的資源がつぎ込まれている状況―これは派遣会社を通じた雇用の方が、実は正規雇用よりもコストがかさむ、といった不合理に似ている―は、利潤の最大化という資本主義的経営に反している。カリスマぶった偉そうなボス、それをおだてる取り巻きたち、尻ぬぐいやアリバイ作りに精を出す社員といったブルシット・ジョブの増大は、現代の組織の多くがむしろ封建制的な様相を呈していることを物語っている。
もちろん、ではどうすればよいのかが問題となる。しかしまずはこのばかばかしさを認識すること、それをみなで共有し、組織やコミュニティーの自治的な結束を強めること、そこから始めるしかないように個人的には考えている。(余談だが「大学の自治」という言葉はあっという間に過去のものとなってしまった。そして国立大学は学長のリーダーシップというスローガンの下、封建制的側面を強めている。一方で、教員と職員との境界が曖昧になり、官僚制的な再組織化が進んでいる。)
2021年10月28日に群馬支部の秋季セミナーをZOOMで開催しました。今回は、共愛学園前橋国際大学国際社会学部国際コース准教授 西舘崇氏にお願いし、「群馬県における多文化共生・共創社会の実現に向けて〜データと当事者の視点から考える~ 」、と題して講演を行っていただきました。参加者は21名です。(JSAG 幹事青木)
伊藤賢一氏講演会を振り返って
文責 小谷英生(群馬大学共同教育学部准教授/哲学・倫理学・社会思想史)
日本科学者会議群馬支部では、去る5月20日に伊藤賢一氏(群馬大学情報学部教授)の講演会をオンラインで開催した。タイトルは「高度情報社会の光と影ーーSociety 5.0/グローバル化/ギグ・エコノミー」であり、インターネット時代の雇用形態のあり方を、その危険性とともに論じるものであった。
最初に少し、私なりの見解を交えて講演の趣旨を解説させていただきたい。ギグ・エコノミーとは、労働者が企業から単発の仕事を請け負うような働き方が主流となった経済システムのことを指す。もっとも分かりやすい職種としては、Uber(欧米ではタクシーが主力だが、日本ではUberEats配達員で有名)をイメージしてもらえばよいだろう。
ギグ・エコノミーはAI化と健康寿命の伸張(=生産年齢の延長)が同時に進んでいく将来社会における新しい働き方として語られることが多い。そうした言説においてギグ・エコノミーは「好きなときに好きなように働くことが出来る」として、肯定的に描かれる。ギグ化した仕事において、人々は被雇用者・従業員ではなく個人事業主として仕事を請け負うのであり、その限りで被雇用者につきものの従属性から解放される、とも。
しかしながらそれは幻想ではないだろうか。例えば食品宅配事業では、商品が破損した場合には宅配員が買い取るケースがある。また、UberEatsのケースでは、2019年11月に基本報酬が一方的に減額された際に、UberEats側は「配達員は労働者ではなく個人事業主であるため、団体交渉に応じる法的義務はない」とコメントしている(2021年5月にも減額が実施されている。なお、こうした会社側の動きに対し、配達員はユニオンを結成した)。
ギグ・エコノミーが浸透していくと、このような対立が至る所で生じる可能性がある。労働者が個人事業主化していく事態を自ら容認することは、労働者が憲法で補償された権利を放棄するに等しい。日本型企業にはしばしば、労働者に経営者意識を持たせることで労働運動を骨抜きにしようという文化的傾向がみられるが、労働者が個人事業主であることを認めることは、その傾向に拍車をかけるだろう。これは望ましい事態ではない。企業としては事業を委託(外注)しているわけだから、業務中の事故や損害を補償する必要はなく、労働者が全責任を負わなければならない事態になりかねない。企業と労働者の力の不均衡は、拡大する一方となるからである。そのような事態を食い止める意味でも、Uberのユニオンには社会的に大きな意義があると私は考える。改めて、エールを送りたい。
以上を考慮すると、ギグ・エコノミーを理想的な働き方とみなすような言説は、悪い冗談のように思われる。この点については、私は伊藤氏と立場を同じくする。伊藤氏は、ジェームズ・ブラットワースを引用しながら講演の中で「ギグ・エコノミーという搾取」について論じたからである。
やや喋りすぎたかもしれない。以下、講演内容について端的にまとめよう。伊藤氏の講演は、情報社会論の歴史を振り返り、D・ベル『脱工業社会の到来』(1974)、A・トフラー『第三の波』(1980)、F・ウェブスター『「情報社会」を読む』(1995)といった古典的著作の分析から始まる(出版年は原典のもの。以下同じ)。そこで語られるユートピア的な将来産業像にはギグ・エコノミー言説に通ずるところがあるが、情報社会とは何か、何をもって情報社会と呼びうるのかは不明瞭である。また、情報社会で逞しく生きる個人をサービス部門での高度な専門家と想定する点で、光の部分しか見えていないという指摘もあった。
講演でも指摘されていたように、現代社会を情報社会と呼びたい誘惑は多いが、インターネットにアクセスできない高齢者が多数いる状況をどう考えるべきなのか。この点を真剣に考えなければ、情報社会論・将来社会論は「バスに乗り遅れるな」的なアジテーションになりかねない。実際、ギグ・エコノミーの肯定的言説の多くは一般的に情報弱者を軽蔑したものであり、それどころか情報弱者にならないよう努力を強いる自己啓発的なものである。
古典的な情報社会論ではポスト工業社会における情報の重要性が強調されていたが、R・ライシュ『勝者の代償』(2000)では、情報ネットワークとしてのインターネットが全面に押し出されるようになった。セネットやバウマンらも述べているように、毎年の収入が安定しており予測可能であった時代は幕を閉じようとしている。派遣労働者、パートタイマー、フリーランサーの増加はもとより、フルタイム雇用であっても手取りは大きく変動する可能性が高まっている。G・リッツァー『マクドナルド化する社会』(1993)が指摘するように、個人の専門性やスキルではなく、マニュアルによって機械化されたサービス労働が増加している。これは企業にとっては合理的なシステムかもしれないが、個々の労働者にとっては単純作業・低賃金・キャリアアップ否定という三つのデメリットがある。労働者の取り替え可能性は増大し、企業と個々の労働者の力関係のアンバランスを加速させるであろう。
ギグ・エコノミーは以上のような歴史的・思想的背景を有しており、インターネット時代のより「自由な」働き方は、より不安定な働き方となってきている。社会の情報化が進んでも低賃金の単純労働はなくならず、むしろ情報技術を使った管理強化によって労働者に対する締め付けは厳しくなっているのである。講演にあった例ではないが、たとえば大手回転すしチェーンでは各店舗の厨房に監視カメラが設置され、作業が監視されている。UberEatsなどの食品宅配事業でも、配達員の位置がGPSでチェックされ、顧客からも丸見えであり、手を抜くことは許されなくなっている。このように、企業にとっては合理的、労働者にとっては不合理な状況が発生しているのだ。
とはいえインターネットを中心とした社会の情報化は不可逆的なように見える。したがって重要なのは、情報技術を否定することではなく、いかにして人々の生活、人権とウェルビーング、尊厳を守る社会をつくるためにそれを活用していくのかにある、と伊藤氏は結んでいる。
JSAG 冬季セミナー
2021年1月28日(木)、18:00~19:30
「群馬県内の外国人労働者の現状と課題」
講師 マコヴェツ・アニタさん(スロベニア出身)
遅くなりましたが、先日のJSAG冬季セミナーの内容を掲載します。
2021年3月3日 担当者
2020年度の群馬支部・冬季セミナーは、2021年1月28日(木)、「群馬県内の外国人労働者の現状と課題」をテーマにズームで開催された。講師として、群馬大学大学院社会情報学研究科を修了し、群馬銀行に勤務経験があるスロベニア出身のマコヴェツ・アニタさんを招いた。本セミナーは、多数の参加を期待するべく、参加も出入も自由で、約2時間おこなわれた。
具体的なプログラムとしては、まず前半に、アニタさんによる「群馬県内での労働体験」についての講演と質疑応答がおこなわれた。その際、彼女には、群馬県での労働体験をそのまま語ってもらった。①働きたくてもビザが下りず、ビザ取得で苦労をしたこと、②外国人労働者は文化の違い(残業、休暇、飲み会など)で苦戦する可能性があること、③日本で働くことにより得られる可能性は国籍によって違いがあること、④高度な日本語能力があった方が有利であること、⑤外国人労働者についても文系より理系が重視されること等が語られた。特に日本人が親切で優しいこと、また、仕事に手厚いフォローがある日本企業で働くことにより、ビジネスする上での必要な体験を得るとともに、人として成長ができたことを語っていたのが印象的であった。
そして、後半では「外国人技能実習制度および特定技能制度」の問題点を簡単に学習した後、それについての討論がおこなわれた。参加者は最大27人で、様ざまな分野の研究者はもちろん、弁護士、県会議員、上毛新聞記者、そして群馬大学の学生も多数参加し、議論は白熱した。技能実習制度については、「国際協力・貢献」でなく、日本の「労働者不足を補う制度」となっていること、低賃金、残業代未払い、長時間労働等、労基法違反が横行していること、また、特定技能制度については、中小企業に広がる深刻な人手不足を解消するという趣旨は是認しうるが、「事実上の移民政策」に通じかねないこと等が指摘され、議論された。この問題の背景には、日本が移民・難民を積極的に受け入れ、本当の意味での“多文化共生社会”となるべきなのかという根本問題が横たわっている。この点については、国民間での議論や理解、コンセンサスはいまだ極めて不十分と言わざるをえない。これは、少子高齢、人口減少の社会に向かう日本における大きな課題であり、将来の日本を大きく左右する。本セミナーはJSA本部から助成を受けている共同研究についての活動の一環として開催されたものであるが、今後とも群馬支部としてこのテーマを継続的に追究していきたいと考える。
文責 群馬大学 藤井正希