日本科学者会議群馬支部(JSAG)
2025年12月13日土曜日
2025年4月25日金曜日
2023年9月26日火曜日
JSAG 夏季セミナー 斎藤 周氏 講演要旨
2023年7月27日18時30分~20時 (ZOOMセミナー)
夫婦別姓訴訟と同性婚訴訟の判例を読む
講師 斎藤 周氏(群馬大学共同教育学部 教授)
ジェンダーと家族をめぐる戦後日本の法制度は、大きな問題をいくつも内包していた。1985年の女性差別撤廃条約批准の後も、改善の歩みは遅々としたものにとどまっている。とはいえ、婚外子への相続差別の撤廃、女性の再婚禁止期間の短縮、婚姻適齢の男女とも18歳への変更といった法改正は行われてきた。その中で、依然として解決していないのが選択的夫婦別姓の導入である。また世論の関心が急速に高まってきた論点として、同性婚制度の法制化がある。この二つの論点について、裁判例の動向を紹介する。
1 夫婦別姓訴訟(最高裁判決)
夫婦同姓を強制する民法750条の合憲性が裁判の場で問われている。これまでに3件の最高裁判決が出されているが、いずれも夫婦別姓を認めない現行法を合憲と判断している。
2015年の最高裁判決の多数意見は、以下のように述べている(その後の最高裁判決もこれを踏襲)。
「氏は,家族の呼称としての意義がある」「家族は社会の自然かつ基礎的な集団単位と捉えられ,その呼称を一つに定めることには合理性が認められる」。「そして,夫婦が同一の氏を称することは,上記の家族という一つの集団を構成する一員であることを,対外的に公示し,識別する機能を有している」。「嫡出子であることを示すために子が両親双方と同氏である仕組みを確保することにも一定の意義がある」。「家族を構成する個人が,同一の氏を称することにより家族という一つの集団を構成する一員であることを実感することに意義を見いだす考え方も理解できる」。「子の立場として,いずれの親とも等しく氏を同じくすることによる利益を享受しやすい」。「夫婦がいずれの氏を称するかは,夫婦となろうとする者の間の協議による自由な選択に委ねられている」。
一方で、少数意見にとどまり、最高裁の結論にはならなかったものの、多数意見への批判的見解も示されている。最高裁2021年判決の宮崎裕子・宇賀克也反対意見は、夫婦別姓を認めない現行民法が違憲であることを、以下のように論じる。
「氏名に関する人格的利益は,氏を構成要素の一つとする氏名(名前)が有する高度の個人識別機能に由来するものであり,氏名が,かかる個人識別機能の一側面として,当該個人自身においても,その者の人間としての人格的,自律的な営みによって確立される人格の同定機能を果たす結果,アイデンティティの象徴となり人格の一部になっていることを指す」。これは「人格権に含まれるものであり,個人の尊重,個人の尊厳の基盤を成す個人の人格の一内容に関わる権利であるから,憲法13条により保障される」。「夫婦同氏制のゆえに,婚姻によって夫となり妻となったがゆえにかかる人格的利益を同等に共有することができない状況が必ず作出される」。「そもそも氏が家族の呼称としての意義を有するとする考え方は,憲法上の根拠を有するものではない」。「現実にも,夫婦とその未婚子から成る世帯は,時代を追うごとにますます減少しており,世帯や家族の実態は極めて多様化し,子の氏とその子が家族として暮らす者の氏が異なることもまれでなくなっている。したがって,そのプロトタイプたる家族形態において氏が家族の呼称としての意義を有するというだけで人格的利益の侵害を正当化することはできないと考える。他の家族形態においてはそもそも氏が家族の呼称という実態自体があるとはいえないからである」。「夫婦同氏を婚姻成立の要件とすることは,当事者の婚姻をするについての意思決定に対する不当な国家介入に当たるから,本件各規定はその限度で憲法24条1項の趣旨に反する」。
さらに、2022年最高裁判決の渡邉惠理子反対意見も以下のように指摘する。
「氏の同一性によっては家族を「識別」できない場合は既に相当数存在して」いる。「そもそも,家族の一体感は,間断のない互いの愛情と尊敬によってはじめて醸成,維持され得るものであり,同一氏制度によってのみ達成できるものではない」。「同一の氏であることが家族の一体感を醸成することに役立つとしても,そのような家族の一体感が,婚姻に伴い氏の変更を余儀なくされた一方当事者の現実的な不利益(犠牲)によって達成されるべきものとすることは過酷であり,是認し難い」。「親と氏を異にする場合に子が受けるおそれがある不利益は,氏を異にすることに直接起因するというよりは,家族は同氏でなければならないという価値観やこれを前提とする社会慣行等に起因するもののようにも思われる」。
両反対意見(違憲論)は極めて説得的であり、多数意見(合憲論)は支持できない。
2 同性婚訴訟(地裁判決5件)
同性婚を認めていない民法・戸籍法の合憲性を問う訴訟が各地で起こされていて、すでに地裁判決5件が出揃っている。そして5件中の4件(2021年の札幌地裁、2022年の東京地裁、2023年の名古屋地裁・福岡地裁の判決)が現行法を違憲と判断していて、合憲と判断したのは1件(大阪地裁)のみである。
このうちの札幌地裁判決は以下のように述べ、同性婚を認めていない現行法が憲法14条1項に違反すると判断した。
「現行民法は,子のいる夫婦といない夫婦,生殖能力の有無,子をつくる意思の有無による夫婦の法的地位の区別をしていないこと,子を産み育てることは,個人の自己決定に委ねられるべき事柄であり,子を産まないという夫婦の選択も尊重すべき事柄といえること,明治民法においても,子を産み育てることが婚姻制度の主たる目的とされていたものではなく,夫婦の共同生活の法的保護が主たる目的とされていたものであり(略),昭和22年民法改正においてこの点の改正がされたことはうかがわれないこと(略)に照らすと,子の有無,子をつくる意思・能力の有無にかかわらず,夫婦の共同生活自体の保護も,本件規定の重要な目的である」。「本件規定が同性婚について定めなかったのは,昭和22年民法改正当時,同性愛は精神疾患とされ,同性愛者は,社会通念に合致した正常な婚姻関係を築けないと考えられたためにすぎないことに照らせば,そのような知見が完全に否定されるに至った現在において,本件規定が,同性愛者が異性愛者と同様に上記婚姻の本質を伴った共同生活を営んでいる場合に,これに対する一切の法的保護を否定する趣旨・目的まで有するものと解するのは相当ではない」。
そして、名古屋地裁判決は、以下のように論じ、現行法は憲法24条2項と14条1項に反すると結論づけた。
「法律婚制度を利用するについての自由が十分尊重に値するとされる背景にある価値は、人の尊厳に由来するものということができ、重要な人格的利益であるということができる」。「現行の家族に関する法制度における現行の法律婚制度は……、同性愛者を法律婚制度の利用から排除することで、大きな格差を生じさせていながら、その格差に対して何ら手当てがなされていないことについて合理性が揺らいできているといわざるを得ず、もはや無視できない状況に至っている」。「婚姻及び家族に関わる立法として、本件諸規定は、性的指向という、ほとんどの場合、生来的なもので、本人にとっては自ら選択ないし修正する余地のない事柄を理由として、婚姻に対する直接的な制約を課すことになっている」。
ここに引用した両判決の議論は的確であり、支持できる。さらにいえば、憲法24条が「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」と規定しているのは、家長たる父親の許しがなければ結婚できなかった帝国憲法下の家制度を否定するものであり、両当事者の合意があれば婚姻を認めるべきという趣旨に理解すべきである。したがって、同性婚を認めない現行法は憲法24条1項違反というべきである。また、両判決は、異性婚に限られた現行の婚姻制度を維持しつつ同性カップルのための制度を別に設ける可能性を示唆しているが、同性婚を異性婚とは異なる制度の中に押し込めることの合理性・必要性は見出しがたく、支持できない。同性カップルにも異性カップルにも開かれた婚姻制度に転換すべきである。
文責 講演者 斎藤 周
2023年7月23日日曜日
JSAG総会記念 赤石 あゆ子氏 講演要旨
⽇ 時:2023年5⽉25⽇(⽊)18時30分〜20時 参加無料
講 師:⾚⽯あゆ⼦⽒(あおば法律事務所・弁護士)
ZOOM開催
「弁護士の日常の実務から見えてくる社会・政治の姿」 弁護士 赤石 あゆ子
1 2000年に弁護士登録したが、当時の群馬の弁護士数は100名余り、うち女性弁護士は自分で7人目と少数だったせいか、離婚関連事件の妻側からの依頼を受けることが多く、気がつけば「離婚弁護士」となっていた。多くの離婚事件、特にDV(ドメスティック・バイオレンス)事件に取り組んで、DVは社会問題であることを実感している。
「パーソナル イズ ポリティカル」とは、1960年代アメリカのフェミニズム運動のスローガンとして知られる言葉だが、この「1人1人の女性の個人的な体験のように見える現象は、実は社会、政治の体制と地続きであり、問題の解決は社会・政治の構造を変えることによってこそなしうる」という考え方は、現代日本のDV問題においても十分に妥当する。
2 DVとは、身体的暴力(物にあたる間接的暴力も)、精神的暴力(暴言、無視など)、性的暴力(性交渉の強要、望まないのにアダルト映像を見せるなど)、経済的暴力(生活費を十分に渡さない、使途の報告を逐一求めるなど)、行動支配(外出を制限する、友人や親族との交流を妨害するなど)などを意味する。加害者側の言い分、暴力の「理由」は様々だが、すべて「優位性の振りかざし」と性格付けることができる。加害男性の属性(職業、学歴、社会的地位など)も様々で、特に粗暴な性格の男性のみの問題ではない。共通するのは、背景にある男性中心・男性優位の社会構造と文化である。
3 DVを支える日本の社会構造の最たるものは性別役割分業である。社会的労働と家庭
内労働の分業(男は仕事、女は家庭)と、社会的労働の中での基幹労働と周辺労働の分業(男は正社員、女はパート)という二重構造がある。近年では男性の非正規雇用も増えているが、基本的な構造は変わっていない。また、税制、社会保険制度において世帯単位の原則がとられ、「被扶養者妻」が優遇されていることと相俟って、主たる家計の保持者たる夫に圧倒的な経済的優位をもたらしている。
男女の格差を解消する法制度上の変化としては、1979年の女性差別撤廃条約(日本は1985年批准)、1985年の男女雇用機会均等法、2001年のDV防止法等があるが、選択的夫婦別姓や同性婚は未だ制度化されていない。 ジェンダーギャップ指数も、2022年は146か国中116位で(2023年6月時点で125位と過去最低)先進国の中で最低レベル、アジア諸国中、韓国や中国、ASEAN諸国より低い数値が続いている。
男性優位の意識も根強く、DV被害者たる妻が抱える問題は多岐にわたる。別居や離婚を決意しても、夫の監視下でどうやって家を出るか、別居後の生活場所や生活費の確保、子どもの転校問題、居場所を知られたくない等々、ハードルはいくつもある。特に近年では夫からの(子との)面会交流の要求に苦慮することが多い。同居中は子に無関心だったDV加害夫が面会交流を求める動機は、家族への支配欲や妻への報復感情にある。
4 相変わらず猛威を振るっている新自由主義が、DVを助長している。新自由主義の下、「強い者、高収入を得る者が偉い」という価値観が蔓延するとともに、競争を強いる職場環境によるストレスから自分より弱い者にはけ口を求める傾向が強まり、家庭内で優位に立つ夫が妻に対して支配的な態度を取る。平等の観念は数十年前に比べれば強くなっていると思われるのにDVがなくならない背景には、新自由主義的な文化が少なからず影響していると思われる。
効率優先の新自由主義は、裁判実務にも影を落としている。別居後離婚までの婚姻費用分担義務は、多くの場合収入の多い夫が負うことになるが、民法上「一切の事情を考慮して(760条)」定めるとされているにもかかわらず、実務では夫婦双方の収入額と子の年齢・人数から機械的に算定される。離婚に伴う財産分与の額も「一切の事情を考慮して(768条)」定めるはずだが、実際には基準時(多くは別居時)におけるそれぞれの名義の財産の合計額を二分する単純な計算で算定されている。個々の夫婦の具体的事情を考慮して裁判官が悩む必要がなく、審理は効率的になるが、夫が浪費家で妻が倹約に努めた結果妻名義の財産が多くなっても、夫の浪費は考慮されない。
特に問題があるのは、10年ほど前から実務で支配的になった「面会交流原則実施論(面会交流制限・禁止事由が立証されない限り実施するという考え方)」である。DVは制限・禁止事由になり得るが、密室で行われるためDVの立証は困難である。ある程度立証できたとしても、「夫婦の問題と親子は別」などと言われて実施を迫られる例は少なくない。かくして、DV加害夫は自らの振る舞いへの内省を求められることもなく、別居後や離婚後も面会交流を通じて(元)妻や子への支配を継続することになる。「原則実施論」は最近になってようやく見直されるようになってきたが、完全な克服には至っていない。
5 さらに危険なのは、「離婚後共同親権制度」導入論である。現行法上離婚後は単独親権であるが、2022年11月、共同親権の導入を含む法制審議会家族法部会の中間試案が発表され、パブコメが実施された。共同親権は、DV被害妻の子連れ別居を「実子誘拐」と非難する「親子断絶防止議員連盟」(現在は「共同養育支援議員連盟」)が伝統的家族観に立って主張してきたもので、法制審パブコメへの自民党議員の介入が指摘されるなどその出自からして問題が多い。元夫婦の信頼関係があれば単独親権でも協力して子を養育監護することはできるのに対し、DV事案では共同親権は非監護親による支配継続の手段となり、高葛藤や非監護親が行方不明の場合は親権行使が不可能となるため、子に不利益をもたらす。従って共同親権導入の根拠や必要性はない。現行法では、親権に争いがあれば調査官による調査が行われ個々の事案毎に判断されているが、もし、面会交流原則実施のように原則共同親権となれば、審理は効率化するが弊害は計り知れない。
6 最後に、DV関係事件は毎日が “たたかい” であり、相手方当事者とその代理人のみならず、裁判所や政治家など国家権力とも対峙しなければならないこともある。それでも続けていられるのは、DV被害者が徐々に元気を取り戻し、自信をつけていく姿に人間の底力を見る思いがするからである。
以上 文責 弁護士 赤石 あゆ子