2021年12月28日火曜日

日本科学者会議群馬支部( JSAG ) 冬季セミナー 要旨

日本科学者会議群馬支部( JSAG ) 冬季セミナー

「なぜ働くことはつらいのか-官僚主義、ブルシット・ジョブ、業績主義ー」
日 時:2022年2月3日(木)18時〜19時30分  参加無料        
講 師: 小谷 英生 氏(群馬大学共同教育学部准教授)
  Zoomミーティング
司 会:永田瞬 氏(高崎経済大学准教授)

 報告者より:デヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』(岩波書店、2020年)を手掛かりに、現代の労働はなぜ面白くないのか、官僚主義や業績主義の特徴や問題点も含めて報告します。 

 岩波書店の紹介文:やりがいを感じないまま働く。ムダで無意味な仕事が増えていく。人の役に立つ仕事だけど給料が低い――それはすべてブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事)のせいだった! 

 職場にひそむ精神的暴力や封建制・労働信仰を分析し、ブルシット・ジョブ蔓延のメカニズムを解明。仕事の「価値」を再考し、週一五時間労働の道筋をつける。『負債論』の著者による解放の書。

 JSAG冬季セミナー講師 小谷英生(群馬大学共同教育学部)

 本セミナーで講演者は、ディヴィッド・グレーバーの議論(『官僚制のユートピア』および『ブルシット・ジョブ』を中心とした議論)を下敷きとして、なぜ私たちはこれほど忙しいのか、しかも本来の仕事ではなく、くだらない雑務で忙殺されているのかを社会理論的(社会哲学的)に考察した。グレーバー自身の立場からいえば、経済人類学的考察ということになる。

 私たちが忙殺されているのは、毎日大量に舞い込んでくるメール処理だったり、会議の資料作成、誰も読まないであろう出張報告書作成などである。こうした仕事が次々と舞い込んでくる原因の一つはテクノロジーの進化であり私たちはスマホに支配されてはいないか?、テクノロジーを利用した、あるいはその進化を促したマネジメント志向の社会的拡大である。そして科学の進歩は中立的かつ必然的であると考えられていることから、この忙しさは歴史の必然であり、最新テクノロジーを非難する人はたんなる懐古主義者とみなされがちである。

 しかしグレーバーは、これこそが悪しき思い込みであると喝破する。現在の姿とは別のかたちでの科学技術の発展も、十分考えられるからである。

 そもそも科学研究には人もカネもかかり、大学の研究室から大型実験施設まで、しかるべき施設も必要だが、どの研究にどのような資源が割り振られるかについては政財界の意向がつよく働く。日本でも、例えば原子力発電と再生エネルギー技術開発との間で、どれほど研究費配分の差があったのか、少し調べれば分かるだろう。「クリーン・エネルギーは原発(と供給不安定な太陽光発電)しかない」という状況は、長い時間をかけて政策的に作られたものなのだ。かくして少なからぬ人が原発再稼働以外に選択肢なしと思い込むように、私たちはメールやビジネス・チャットのような通信技術や様々な管理アプリの発達といったテクノロジーの進歩を必然的でオルタナティブのないものと考えがちである。

 現状のラインでのテクノロジーの進化を、私たちはなぜ易々と受け入れてしまうのか。もちろん受け入れざるをえないということもある(少なくともオフィス・ワーカーは、メールはもちろんエクセルなどが使えないと仕事にならない)。しかしまったく何の抵抗もなく積極的に受け入れられる傾向にある理由の一つとして、私たちの社会において官僚主義が広くいきわたり、私たちはそれを当然のものと受け入れてしまうということがある。官僚主義の本質は手続き主義、ルールの絶対視、エビデンス至上主義である。ここに実力主義や評価主義が結びついて、官僚主義はたんなる行政手続き以上のものとなり、産業社会に広がっている。

 ルールの絶対視の例として、グレーバーは警察への信頼の高さを挙げている。プラトン以来の伝統を持ち出すまでもなく、ルールは制定者と非制定者の間の権威関係・権力関係を含んでいる。したがってルールの絶対視がもたらすのは、権威・権力への盲目的服従である。事態は警察にとどまらない。私たちは電車内でのトラブルは駅員に、コンビニであれば店員に解決してもらおうとする。それ自体は個人的実践としては正しいが、横並びの人間関係のなかで問題解決しようという姿勢と能力の弱体化を含んでいることは留意すべきである。実際、まさにこの能力の弱体化こそが、責任者に頼ることを正しい実践とするのである。私たちは社会的トラブルを私たち自身で解決することができなくなっている。

 このような状況で私たちは、「ルールだから仕方がない」「上の指示には従わざるを得ない」という態度を受け入れることになる。興味深いことに、この二つの態度はしばしば一体化しており、区別できないことがある。いわば、立法と行政の境界線が不鮮明になっているのだ。カール・シュミットは行政が立法を(ルール運用者がルールを)踏み越える事態を例外状態と規定し、現在では例外状態の常態化がしばしば指摘されるが安倍政権やトランプ政権は多くの点で、こうした状況を裏づけていた、一方でルール運用者は、ルールの私的解釈や私的濫用によって、恣意的な権力行使を行。他方で、これは議論の中で気づかされたことであるが、ルールがルール運用者の権威を上回ることがある。それは、ルール運用者が、ルールの機械的な運用によって自らの決定と責任を回避しようとする場合である。政治家が毅然として決定すべき事柄を住民投票という手続きに委ねようとする、といった事例がこれに当たる(とりわけそれは、マイノリティ差別解消に向けた政策立案などに見られるようである)。

 結局のところ、私たちは下らない雑務に忙殺されていながらも、「そういう時代だから」とか、「それはルールだから」「上からの指示だから」といった理由で表立って拒絶することができず、それに取り組むことになる。非効率な手続きを増やすだけだとわかっていても、効率化を目指すとされる組織改革やシステム導入に渋々したがうことになる。これもまた本セミナーの論点であったが、かくしてホモエコノミクスによる選択の最大合理化という資本主義モデルに反した事態が、さまざまな組織で生じることとなる。各人が自分のやるべき仕事に集中して取り組めないという事態は、あきらかに非合理であり非効率である。しかもこうした非合理と非効率に人的・物質的資源がつぎ込まれている状況これは派遣会社を通じた雇用の方が、実は正規雇用よりもコストがかさむ、といった不合理に似ているは、利潤の最大化という資本主義的経営に反している。カリスマぶった偉そうなボス、それをおだてる取り巻きたち、尻ぬぐいやアリバイ作りに精を出す社員といったブルシット・ジョブの増大は、現代の組織の多くがむしろ封建制的な様相を呈していることを物語っている。

 もちろん、ではどうすればよいのかが問題となる。しかしまずはこのばかばかしさを認識すること、それをみなで共有し、組織やコミュニティーの自治的な結束を強めること、そこから始めるしかないように個人的には考えている。(余談だが「大学の自治」という言葉はあっという間に過去のものとなってしまった。そして国立大学は学長のリーダーシップというスローガンの下、封建制的側面を強めている。一方で、教員と職員との境界が曖昧になり、官僚制的な再組織化が進んでいる。)

 

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