2021年4月7日水曜日

JSAG_2021年度総会兼記念講演(春季セミナー)5月20日の予定

  

伊藤賢一氏講演会を振り返って
文責 小谷英生(群馬大学共同教育学部准教授/哲学・倫理学・社会思想史)

 日本科学者会議群馬支部では、去る5月20日に伊藤賢一氏(群馬大学情報学部教授)の講演会をオンラインで開催した。タイトルは「高度情報社会の光と影ーーSociety 5.0/グローバル化/ギグ・エコノミー」であり、インターネット時代の雇用形態のあり方を、その危険性とともに論じるものであった。
 最初に少し、私なりの見解を交えて講演の趣旨を解説させていただきたい。ギグ・エコノミーとは、労働者が企業から単発の仕事を請け負うような働き方が主流となった経済システムのことを指す。もっとも分かりやすい職種としては、Uber(欧米ではタクシーが主力だが、日本ではUberEats配達員で有名)をイメージしてもらえばよいだろう。
 ギグ・エコノミーはAI化と健康寿命の伸張(=生産年齢の延長)が同時に進んでいく将来社会における新しい働き方として語られることが多い。そうした言説においてギグ・エコノミーは「好きなときに好きなように働くことが出来る」として、肯定的に描かれる。ギグ化した仕事において、人々は被雇用者・従業員ではなく個人事業主として仕事を請け負うのであり、その限りで被雇用者につきものの従属性から解放される、とも。
 しかしながらそれは幻想ではないだろうか。例えば食品宅配事業では、商品が破損した場合には宅配員が買い取るケースがある。また、UberEatsのケースでは、2019年11月に基本報酬が一方的に減額された際に、UberEats側は「配達員は労働者ではなく個人事業主であるため、団体交渉に応じる法的義務はない」とコメントしている(2021年5月にも減額が実施されている。なお、こうした会社側の動きに対し、配達員はユニオンを結成した)。
 ギグ・エコノミーが浸透していくと、このような対立が至る所で生じる可能性がある。労働者が個人事業主化していく事態を自ら容認することは、労働者が憲法で補償された権利を放棄するに等しい。日本型企業にはしばしば、労働者に経営者意識を持たせることで労働運動を骨抜きにしようという文化的傾向がみられるが、労働者が個人事業主であることを認めることは、その傾向に拍車をかけるだろう。これは望ましい事態ではない。企業としては事業を委託(外注)しているわけだから、業務中の事故や損害を補償する必要はなく、労働者が全責任を負わなければならない事態になりかねない。企業と労働者の力の不均衡は、拡大する一方となるからである。そのような事態を食い止める意味でも、Uberのユニオンには社会的に大きな意義があると私は考える。改めて、エールを送りたい。
 以上を考慮すると、ギグ・エコノミーを理想的な働き方とみなすような言説は、悪い冗談のように思われる。この点については、私は伊藤氏と立場を同じくする。伊藤氏は、ジェームズ・ブラットワースを引用しながら講演の中で「ギグ・エコノミーという搾取」について論じたからである。
 やや喋りすぎたかもしれない。以下、講演内容について端的にまとめよう。伊藤氏の講演は、情報社会論の歴史を振り返り、D・ベル『脱工業社会の到来』(1974)、A・トフラー『第三の波』(1980)、F・ウェブスター『「情報社会」を読む』(1995)といった古典的著作の分析から始まる(出版年は原典のもの。以下同じ)。そこで語られるユートピア的な将来産業像にはギグ・エコノミー言説に通ずるところがあるが、情報社会とは何か、何をもって情報社会と呼びうるのかは不明瞭である。また、情報社会で逞しく生きる個人をサービス部門での高度な専門家と想定する点で、光の部分しか見えていないという指摘もあった。
 講演でも指摘されていたように、現代社会を情報社会と呼びたい誘惑は多いが、インターネットにアクセスできない高齢者が多数いる状況をどう考えるべきなのか。この点を真剣に考えなければ、情報社会論・将来社会論は「バスに乗り遅れるな」的なアジテーションになりかねない。実際、ギグ・エコノミーの肯定的言説の多くは一般的に情報弱者を軽蔑したものであり、それどころか情報弱者にならないよう努力を強いる自己啓発的なものである。
 古典的な情報社会論ではポスト工業社会における情報の重要性が強調されていたが、R・ライシュ『勝者の代償』(2000)では、情報ネットワークとしてのインターネットが全面に押し出されるようになった。セネットやバウマンらも述べているように、毎年の収入が安定しており予測可能であった時代は幕を閉じようとしている。派遣労働者、パートタイマー、フリーランサーの増加はもとより、フルタイム雇用であっても手取りは大きく変動する可能性が高まっている。G・リッツァー『マクドナルド化する社会』(1993)が指摘するように、個人の専門性やスキルではなく、マニュアルによって機械化されたサービス労働が増加している。これは企業にとっては合理的なシステムかもしれないが、個々の労働者にとっては単純作業・低賃金・キャリアアップ否定という三つのデメリットがある。労働者の取り替え可能性は増大し、企業と個々の労働者の力関係のアンバランスを加速させるであろう。
 ギグ・エコノミーは以上のような歴史的・思想的背景を有しており、インターネット時代のより「自由な」働き方は、より不安定な働き方となってきている。社会の情報化が進んでも低賃金の単純労働はなくならず、むしろ情報技術を使った管理強化によって労働者に対する締め付けは厳しくなっているのである。講演にあった例ではないが、たとえば大手回転すしチェーンでは各店舗の厨房に監視カメラが設置され、作業が監視されている。UberEatsなどの食品宅配事業でも、配達員の位置がGPSでチェックされ、顧客からも丸見えであり、手を抜くことは許されなくなっている。このように、企業にとっては合理的、労働者にとっては不合理な状況が発生しているのだ。
 とはいえインターネットを中心とした社会の情報化は不可逆的なように見える。したがって重要なのは、情報技術を否定することではなく、いかにして人々の生活、人権とウェルビーング、尊厳を守る社会をつくるためにそれを活用していくのかにある、と伊藤氏は結んでいる。