2019年11月12日火曜日

冬季セミナーが開催されました




「義務教育課程における道徳教育の教科化について」
日本科学者会議群馬支部( JSAG ) 冬季セミナー
講師:小谷英生・群馬大学准教授
群馬大学教育学部A棟3階 A-311教室

 今回のセミナーでは、道徳教育の教科化に伴い、学校教育現場においてどのようにそれを進めていくべきかについて簡単に(40分ほど)レクチャーした後、参加していただいた学生も交えてフロア全体で協議した。
 最初に、現行の道徳教育が自己責任倫理を植え付ける傾向にあり、少数の起業家精神を持った人間(いわゆる勝ち組)と多数の萎縮し従順な人間(いわゆる負け組)を排出する危険性を指摘した。その上で、道徳の授業が価値の押しつけではなく「考え、議論」させるものになるにはどうしたらよいのか。これを本セミナーのテーマとした。これに対する一つの答えが「生徒の常識や優等生的回答を(否定するわけではないが)揺さぶること」であり、「価値に関する思考にトラブルを起こすこと」であった。「トラブルを起こす」というのは、これまでの思考がうまくいかないような状況を作ることであり、そうすることで初めて生徒は自分自身の思考をスタートすることができる。個別的なケースでどうやってトラブルを起こすのか、そこで止まらないようにどうやって生徒を鼓舞し、さらに考えるためのヒントを与えたり対話していくのか。これが重要だというのが私なりの主張であった。
 道徳教育の教科化の背景についてはあまり詳しく論じなかったが、言うまでもなく政権(およびその支持団体、とりわけ経団連や日本会議)の意向がある。しかしながらそうした右派ないし極右団体でさえ、グローバル資本主義の中で民主主義国家の体裁をとり続けるためには、〈自立的・自律的な思考力〉や〈コミュニケーション能力〉の育成という点を無視し得ない点にも注意が必要である。新自由主義と新保守主義は対立するものではなくむしろ相補的なものだ、という主張はすでに多くなされてきたが、道徳教育においてはまさに両者が歪な形で同居している。それが一方で「考え、議論する」ことの強調に、他方で例えばジェンダー教育・人権教育の排除につながっていると考えている。この点については今後もう少し研究を進めたい。
 諸外国の事例についての質問もあり、発表者が知りうるドイツの事例を紹介した。もう一度書き起こせば、ドイツ(ドイツ語圏)ではギムナジウムなどで「哲学」の授業があり、そこでは「ヒトラーの『わが闘争』の発禁期間が切れたが、発禁期間を延ばすべきか、解禁すべきか」といったような高度に歴史的・政治的な議題さえもが扱われる。ただし、こうした授業を行うに際しては教師自身の準備はもちろんのこと、そうした「きわどい」授業を行うに際しては予め親の許可が必要となる。周知のように欧米は契約社会であり、それを「冷たい人間関係」だと感じる日本人も多いようだが(一面ではそれもまた真実である)、それは教師と生徒を守ることにつながっている。
 以前イタリアの教育事情を聞く機会があったが、イタリアでは生徒が万引きしたからといって教師が呼び出されるようなことは絶対にないとのことだ。犯罪は警察の仕事だからだ(給食費の滞納も、場合によっては警察の管轄となる)。あるいはいじめがあった場合、それは児童相談所の仕事。教師は授業をするだけでよく、それこそが仕事だという社会的合意がある。
 翻って日本の場合、生徒指導、部活、授業準備など、あまりにも過重な業務が教師に押しつけられている。そのため本当の意味で「考え、議論する道徳」の授業を展開することは不可能と言えよう。もちろん、授業専門の教師は塾・予備校にいるにはいる。しかしそこでは受験教育しかなされないため、ドイツの「哲学」のような授業ができるプロ教師が育たない。若者教育の貧弱さを痛感するが、こうした状況を変えられるのも教師自身であるためーー彼らが運動を起こさずして、どうして状況が改善するだろうかーー、私自身は教員養成を諦めるつもりはない。
 最後になりましたが、司会をお引き受けいただいた斉藤周さんに改めて感謝申し上げます。
(文責 群馬大学教育学部 小谷英生)